家系譜 |
生井家系譜田間生井氏の先祖発々の経歴書生井氏姓は源氏の後之なり、中興の祖先、生井讃岐守新八郎政詮と称す。 結城七郎朝光公の下臣として隷属せり。結城十一代源氏朝公の代々 足利義詮と確執して戦端を開き、足利義教公十八万の大軍を差し向 け、結城の城を取り囲み、攻む。京軍の大勢と、氏朝の軍勢僅か七 十余人の軍勢なれば、諸将追々討死す時に、諸城氏朝長男持朝・次 男長朝・三男朝兼発二十八騎将士一族郎等皆討死す。 持氏の遺児春王丸・安王丸生捕にせられ、結城の城落城せり。時に 嘉吉元年四月十六日なり。時に氏朝の四男成朝幼少なれば、袍の中 に懐かれて下臣多賀谷彦四郎兼高御供仕りて、常陸佐竹へ落ち、佐 竹義信公圉み奉り養育せられ、成長後結城に帰り結城城主となる。 時に、宝徳三年、成朝是なり。 右戦乱に打負けし諸将士散乱浪れ流れの士と成りしが、各々諸辺に 土着住居を成して農となり、商となり、各地方に土着し住家を成せ り。結城城下近辺の諸姓氏に結城氏朝公の下臣の落籍者なり。 右当時代に田間生井氏の祖先も、右の戦乱に破北して後、水戸佐竹 氏に寄寓し居り、佐竹氏の下臣に隷属せり。 高祖・生井讃岐守政詮新八郎と号し、其の嫡男を生井政道と称す。
生井讃岐守政道生井讃岐守政道、政詮の長男なり。義澄兵部太郎左衛門と称す。後水尾天皇元和四年没す。 義澄の嫡男、生井親五郎親徳と號す。 親徳の代、時に常陸水戸領主権中納言、源義公殿之下知に依り、家 系籍を改め、家柄に付き、下臣として、新地百石を以て御取立て、 御花畑町に於いて生井澤と改め、新左衛門義徳と称す。是即ち姓、 源氏本姓なり。玉野楯主となる。生井民部少輔親朝と號す。 時に元和八年八月廿五日なり。 玉野地を後、田間と称す。又、生井氏民間に落籍して世系を重ね代々 田間の郷主となり生井氏を系承せり。
斎藤喜久三郎氏古文書写(斎藤憲治郎氏所蔵) |
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